【鳥散歩】平成30年 #26『靖国神社②』

『靖國神社①』からの続き...
 
 
ちょっと入口付近まで戻ります。
 


こちらは『靖國神社』第一鳥居(大鳥居)です。

現在の第一は、昭和49年(1974)に再建された耐候性鋼板製のもので、その高さは25m、さらに、笠木の長さ34m、柱の直径にいたっては2.5m あります。

※耐候性鋼(たいこうせいこう)って、錆びにくくて、錆びても中まで腐食が進みにくい鋼材のことです。

写真だと、その大きさがなかなか伝わりにくいかもしれませんが....そうですねぇ....大きな鳥居の代表格で言いますと、例えば、広島県『厳島神社』の、重要文化財、そして世界遺産でもある

『安芸の宮島 朱丹の大鳥居』

こちらは木製の鳥居ですので材質カテゴリーでは『靖國神社』第一鳥居と違いがありますけれども、高さと大きさだけで比べてみますと、『厳島神社』『朱丹の大鳥居』は、高さ16.6m、笠木の長さ24.2mですから、『靖國神社』第一鳥居が、いかに大きな鳥居であるかがおわかりいただけるかと思います。

でもね、『靖國神社』第一鳥居は、『すんげぇ大きいんだよ!!』...と言っても、材質問わずで見る日本の鳥居、大きさランキングでは6番目...。

何事も、上には上があるものです。(^^ゞ


『靖國の大鳥居』の、堂々とした、この風格というか迫力は、まさに『仰ぎ見る』という表現が相応しく、この鳥居の真下に立つと、ここから神域に入るのだという、身が引き締まる思いがいたします。

先ほど、『再建されたもの』と言いましたが、一番最初の第一鳥居は青銅製で、大正10年に建てられました。
しかし、昭和18年、老朽化による腐食が進んだために撤去され、昭和49年の再建までは、第一鳥居として桧の鳥居があったのだそうです。

昭和18年というと大東亜戦争の真っただ中ですから、きっと軍の増強のために使われたのでしょうね。


『靖國神社』には、この第一鳥居を含め計4基の鳥居があり、それらの材質は全て異なります。

最も古いのは、明治20年(1887)に建てられた第二鳥居
こちらは青銅製です。

青銅大鳥居としては日本一

この鳥居も、ご覧の通り、そりゃもう、えらくデカいのですが、第一鳥居を見た後なら大丈夫、ぜんぜん驚きません。(^^ゞ




第一鳥居をくぐったすぐ右手には『常陸丸殉難記念碑』があります。

この碑は、今から114年前に起きた『常陸丸事件』(ひたちまる事件)で亡くなられた多数の方々のための慰霊碑です。


『常陸丸事件』
時は、明治37年(1904) 6月15日、日露戦争のさなか、陸軍・海軍将兵・その他乗組員ら総計1238名と武器弾薬を積み、朝鮮・満州方面へ向かって玄界灘の沖を航行していた陸軍徴用運送船『常陸丸(ひたちまる)』が、ロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊所属装甲巡洋艦『ロシア』『リューリク』『グロモボーイ』の3隻に追撃され、相次ぐ激しい砲撃を受けたことにより撃沈破した事件。
このことにより、陸軍・海軍・その他乗組員・英国人船長他数名の総計1091名が『常陸丸』と共に殉じた。

出典:ウィキペディア『常陸丸』
(By Unknown - 山高五郎(著)『図説 日の丸船隊史話』p.102, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20718912)
初代『常陸丸』
総トン数6172トン・垂線間長135.64m

当時のこういった陸軍運送船は、もともとが貨客船や商船であったものを使用していたので、敵艦に太刀打ちできる、戦闘のための装備というものがほとんどなかったのだそうです。

なので、こうした運送船等の航行を守るため、日本海軍連合艦隊が日本海上の警備にあたっていたわけですが、日本海といえど、そこは広い洋上....、突如として現れる敵艦を逐一捕捉することは簡単なことではなく、また、運悪く気象状況の悪化までもが重なって、『常陸丸』と多数の乗員の命が敵艦隊によって奪われるという痛ましい事件が起こってしまいました。

対艦戦闘力の無い、それこそ敵艦に対して、乗員が小銃で応戦することしかできない状況の中で、3隻もの装甲巡洋艦から一方的な砲撃を受け、1000名を超える多数の人々が、為す術も無く命を落としていった....、そのときの彼らの無念さは如何ばかりだったでしょう。

護国海防艦の碑

わたくしは戦後の平和な日本に生まれ、今に至っております。
こういった話は、何かのきっかけがあって見聞きするか、知りたいという気持ちを持って自分で調べることでしか情報を得ることができません。

でも、知れば知るほど、戦争の話なんて恐いから、聞きたくないと耳を塞ぎ、見たくないと目をつむってはいけないと思えてくるのです。

そんな思いから、『常陸丸殉難記念碑』の前に立ったとき、わたくしは、ただただ切なくやり切れない気持ちで、日本海に散っていかれた方々のため、黙祷し、哀悼の誠を捧げました。


『常陸丸殉難記念碑』のお隣に目を向けると、そこには『田中支隊忠魂碑』があります。

こちらは、第一次世界大戦中、極寒のシベリアで、数において圧倒的に差のある敵の軍隊に囲まれ、壮絶な戦いの果てに、多数の日本兵が命を落とした『田中支隊』の御霊を鎮めるために建てられた碑。

これらの慰霊碑は、第一鳥居の脇にあるのですが、多くの参拝者は参道のその先にある拝殿に気持ちが向かっていますので、ほぼ気付くことなく、ほぼ目を向けることもなく、この慰霊碑の前を通り過ぎて行きます。

関心を持たれないこと....これが、ある意味日本が敗戦した、あの大東亜戦争以来、この国が平和を維持し続けている証拠とも言えるのでしょうが......なんか、微妙に寂しいですね。




参道をずずずっと拝殿の方向へ進んで行くと、だいたい第一鳥居第二鳥居の中間くらいのところで、超高い台座の上に立つ、とある男性の銅像が現れます。

ま、現れる...と言いましても、かなり目立つ銅像でございましてね、もう第一鳥居を入ったところから、グイグイと参拝者の眼に食い込んでこられるこちらのお方.....その名は....

大村益次郎

......て.....おちり側かよっ!?

まぁまぁ...、これには理由がございましてね...。(-ω-)/

まずは、この話からしないといけないのですが、ここ『靖國神社』北寄りの東を向いています。


で、この銅像は、朝の太陽の光を身体前面に受ける感じの立ち位置...つまりは神社の入口方向を向いて立っているわけなのですけれども、これがですね、午後2時過ぎ頃参拝に訪れました今回...、お顔側が、思いっきり太陽をバックに逆光となってしまってですね...。

ちょっと補正も難しいので、撮影は大変恐縮ながら、おちり側より失礼仕りまして...カシャリとさせていただきました。


あ.....でも、これはこれで意外とかっこいい写真になりましたので、わたくしといたしましては大変満足でございます。(^^♪

この大村益次郎という方は、日本の近代的軍制の創始者であり、ここ『靖國神社』の前進となる『東京招魂社』の創建にも尽力された方であります。

日本のために新しい国防の在り方を考え、それを実践してきた彼に対し、猛烈な反対勢力...いや...個人的な何かがあったのかもしれませんが、元長州藩士らの襲撃により重症を負ったことが原因で明治2年11月5日(1869.12.7)、46歳の年に死去。

護国のために尽くした彼の御霊は、ここ『靖國神社』へ合祀されました。





さて、この先は、第二鳥居から、神門へ進み拝殿へ....となるのですが、参拝はすでに済ませてありますので、中門鳥居の前にある『靖國の桜』を右方向へ抜けて行きます。


能楽堂前から、チラ...。(^^ゞ

案内図の矢印で示した通りに進むと、『遊就館』という資料館があります。


今回は、残念ながら、ゆっくりと見て回るには、少々時間がありませんでしたので、写真の撮影可能な玄関ホールだけ、あとで見てみることにします。




.....というところで、この続きは『靖國神社③』へ.....。

『靖國神社③』へは、ここからどうぞ

ほんじゃ、今回はここまで。 (=゚ω゚)ノまたなっ!!

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